サッカー人生と留学に至るまで
自分のこれまでのサッカー人生と留学をするに至ったまでを書いていこうと思う。
というのも最近はよく就活のことをする中で自分を振り返る機会が多く、ちゃんと言葉で残したいと思うようになった。
なんでこの2つの話を一気に書こうと思ったかというと、自分のサッカー人生における挫折と留学をしようと思ったきっかけに繋がりがあったからだ。
自分は幼稚園の時に友達に誘われてサッカーをはじめた。
そのまま同じチームで小学校も続けた。
怖いコーチがいたりしたけど、めっちゃ楽しくて最高の友達にも出会えた。
中学に上がった時にクラブチームに入るかどうかとなった時に、高校受験も考えてクラブチームには入らず、部活でサッカーを続けた。
全然強いわけでもない中学校の部活で、自分も大して何にも突出してない選手だった。
中学時代は特に大きな成績もなく、なんとなく引退まで迎えた。
高校に上がる時に、高校受験では苦労して県内の某I丘高校に受かり、その高校の文武両道という所にもすごく惹かれていた。そしてサッカーも公立校ながら県ベスト4のチームだった。
入部したときは自分の代だけでも30人近くの部員がいて、その中には中学からの同級生、小学校時代から有名な選手、とにかく面白そうなやつ、イケメンなやつ、色んな人がいて、これからの高校3年間がすごく楽しみになった。
高校に入ったばかりの頃は、毎日早起きして朝練をした。朝は弱かったけど練習が楽しみだったからとにかく頑張れた。
1年の頃はトップチームのメンバーに入れたりしたけどスタメンで出られると言うほどではなかった。
2年に上がった時からありがたいことに試合にスタメンで出られる事が増えて、ある日体育の先生でもあった監督に体育の授業中に声をかけられた。
「お前、国体とか興味あるか」
興味があるもなにも全く考えてない事だったから驚いた。セレクションっていう形で1回練習に参加する事になった。
入った時はとにかくアウェーだった。なぜなら周りは強豪私立やクラブチームの選手ばかりで、公立の選手なんて1人もいなくて自分だけだった。確実にプレーも周りに劣っていた。
そして確かに周りはえげつないぐらい上手くて内心びっくりした。
その中でも自分はとにかくモットーである必死でプレーすることを心がけた。
その結果そのまま練習に参加し続けることになったが、そこからが本当に大変だった。
厳しく、レベルの高い世界だったから当たり前だけど本当に周りからめちゃくちゃに言われた。悔しかったけど自分のプレーが要求に追いつかない時もあり、本当にやめたくなった時もあった。周りから認められてるとは全く感じなかった。
高校の中の世界ではそれなりにやれていたと感じていたから悔しくて、自分が見ていた世界は狭かったんだと思った。やってやるぞという気持ちになった。
それからは高校の練習に懸命に取り組んで、国体の練習で失敗して、また高校の練習に戻っての繰り返しだった。
でも、そうやってレベルの高い周りに揉まれて練習していくうちに自分が驚くほどメキメキ上達していくのを感じた。周りからどう見えていたかは分からないけど少なくとも自分の中では強くそう感じていた。
北信越国体で優勝した頃には周りから少しずつではあるが認められていったように感じていた。
その結果で本国体出場を決め、また練習が続いた。
それぐらいから徐々に練習が楽しみになっていった。そしてなにより自分のプレーに自信がついていったように感じた。そしてこの自信がいかに自分を強くさせていくかを身をもって感じていた。
そしてついに本国体を迎えた。
その頃には自分は覚悟を持ってピッチに入っていた。もう自分が周りに比べると公立高校のちっぽけな下手くそな選手だなんてことは意識の外にいっていた。
振り返ると、大してすごくもなんでもなかった自分がそんな全国のピッチに立てていることが信じられなかった。
あの時の入場のアンセムはいまだに忘れられず、自分を時に奮い立たせる。
最強のオフェンス陣のおかげで
最後は兵庫県に逆転負け、ベスト8で散った。
悔しかったけど、ここまでやりきった自分自身を褒めたかった。そして一緒にプレーしてくれた選手や監督スタッフ陣に感謝しかなかった。
その後は、高校のチームで練習や試合を重ね、3年の春に部活を引退した。
そして大学に受かり、早々とサッカー部に入ることを決めた。
しかしここからが自分のその後を変える大きな挫折経験だった。
大学のサッカー部に入ることを決めて、プレーし始めた時に急にサッカーへの自信を失ってしまったのだ。
すごく自分が信じられなくて、部活としてのサッカーから離れるという決断は苦しくてしょうがなかった。期待してくれていた人に対しても申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
だけどそれ以上続けると自分がサッカー自体を嫌いになりそうな気がして部活からは離れる決断をした。
では、なぜ急に自信を失ったのか?
悪くいえば、自分が過去の栄光にすがりついて調子に乗っていたのだ。天狗になっていた。
だけど自分はまだまだ下手くそだった。
1年で入ってもすぐにレギュラーになれるだろうと完全に甘く見ていた。
そんな自分の【弱さ】が、部活に入ったことによって、完全に露呈してしまった。
でも逆にいえば、ほんの1時期だけでも部活に入るという決断をしていなければ自分はこの弱さに気づけていなかったかもしれない。
それ以来は必ず謙虚に生きていこうと決めた。
実際になんの行動にもうつせていないとしても心の中ではそう誓った。
こんなにカッコつけて書いているけど部活を離れるという決断は周りから見ると、ただ部活から逃げただけだと思われるかもしれない。自分はそう思われても全然構わない。
逃げることも時には自分にとっての1つの正解になる事もあると気づいたから。
部活を辞めなければ留学という自分が本当に没頭できるような世界に出会うことはできなかったからだ。
部活を続けていればそれはそれなりの収穫もあったはずであり、それも自分の正解になっていたと思う。
だけど存在する正解は1つではない。
部活のような新しい集団に入って新しい人達を目の当たりにしてようやく自分の【弱さ】に気づけたというのがすごく大きかった。そしてそれを機に自分の知らない自分がまだまだいるんじゃないかと思った。
だからもっともっと新しい人や世界に飛び込んで自分を知っていきたい。そう思って留学という世界を意識するようになった。
ここまでが留学を意識するようになった話で、ここからは実際に交換留学に至るまでの話だ。
自分の所属する学部は短いものから長いものまで期間は人それぞれだが必ず海外に行く経験をしなければならないというプログラムがある。
そういうわけで自分も1年の夏にフィリピンのセブに2週間語学留学で海外に行くことに決めた。本当にその時はただ、近くて安くて土地も楽しそうだなとそんなにこだわりもなく決めた記憶がある。
平日の朝から夜までの英語マンツーマンレッスンに加えて、週末に自分は大学の先生に勧められた日本のNGO団体を通じた現地のストリートチルドレンと交流する活動に参加することにした。
結論から言うと、本当に楽しくて学ぶことの多すぎる2週間だった。そして東南アジア・フィリピンの空気が完全に自分にフィットした。笑
英語の勉強をするのがとにかく楽しかった。もっというと英語を使って先生と会話をするのが本当に楽しかった。英語の楽しさを教えてくれた先生たちには本当に感謝したい。
今でもたまにテレビ通話をするような間柄で、本当に面白いフィリピン人だ。笑
でも自分の人生を変えてくれたと言っても過言ではない。
もう1つはストリートチルドレンとの交流だ。
参加前に現地コーディネーターに話を聞いていると、昔中華系の富裕層が作った墓地に住み着いているということだった。どういうことなのか全く分からなかった笑けどすごい状況だということは伝わった。
そして自分の頭の中では勝手に、暗くて元気を失った子供たちだらけなのだろうと思っていた。
だけど墓地に入ると自分の勝手な想像はすぐに砕け散った。初めて会う日本人にいきなり飛びついてくるような子供たちだらけだった。一緒に踊って歌って炊き出しをして、気づけばあっという間に帰る時間になっていた。自分がこんなにも楽しむ時間になるとは行く前には全く思っていなかった。笑
そこでの活動を振り返って、こんなにも住む環境が厳しくて、十分とは言えない生活を送っている中でもあんなに元気に笑顔いっぱいで生きている子供たちを見てすごく心が打たれた。
そしてそれと同時に将来は間接的であれ直接的であれ絶対にこういう子供達を救いたい、そして可能性を広げてあげたいと思った。
こうして1度目のフィリピン渡航は終わり、あまりにも楽しかったから、大学2年の夏は全く同じところに全く同じプランで個人的に行くことに決めた。今回は1ヶ月にした。
語学学校は変わらず楽しく、しっかり英語の勉強をした。
そして、1年越しに同じ墓地を訪問した。
すると何人かが1年前にたった1度だけ来た自分のことを覚えていたのだ。感動して、彼ら彼女らが自分にとっては余計に輝いて見えた。
そして今回は初めての1人旅を決めた。
フィリピン・セブからは少し離れた
シキホール島という今でも黒魔術伝説が残るという島にリュックを1つ担いで行った。フィリピンの公用語は英語とはいえ、ローカルな地域はアナウンスも標識も全部現地のタガログ語で書かれているため、本当にさっぱりだった。
目当ての場所に行くっぽいバスに乗って本当に着くのかとソワソワしながら不安で一睡もできず無事フェリー乗り場に到着した。しかし、そこからが全くどこに行けば分からず迷子になって、自分は一生ここで置き去りにされるのかと不安になった。
そこである家族が自分に話しかけてきてくれた。「 Oh , Japanese?」みたいな感じで笑
ちょっと怪しい人かなとか一瞬頭をよぎったけどそんな事を考えている余裕はない、「Yes! シキホール島に行きたい!」と伝えた。すると彼らは偶然同じ島に行く家族だった。
それからフェリーの乗り方、チケットの買い方、など全部教えてくれて一緒にやってくれた。優しい、、そう思った。
そしてフェリーに乗った後に一緒に座っていると長旅で何も食べていないことを察したお父さんが肉まんを家族の分だけではなく自分にも買ってきてくれた。ビックリした。お金を払うよといっても要らないよと言ってくれた。
どうしてこんなさっき会ったばかりの、一生会わないであろう日本人にこんなにも親切にしてくれるんだろうと感動して、それまで不安だった事もあって肉まんをかじりながら泣きそうになった事をいまだに覚えている。笑
そして無事出発から約12時間かけてようやくお目当てのシキホール島に到着した。
ここからが本当の旅の始まりだというのにもう旅をやりきった気持ちでいた。笑
到着してその家族とは写真だけ撮って最大限の感謝を伝えて別れた。
着いたのがもうほぼ夕方なのに宿を決めずに飛び込んだせいで結構あせっていた。そこで到着したフェリー乗り場のお兄ちゃんに聞くと日本人が経営するVilla(コテージみたいな宿泊所)があるよという事なのでそこに連れてっていってもらった。
到着するとフィリピンの子供達に案内されてすごく優しそうな日本人のおじちゃんの所に案内された。ダーマンと子供達から呼ばれ、慕われていた。
なんとか1部屋だけ空いているという事で、そこに1泊できることになった。
その晩はダーマンや他の宿泊客も含めてみんなでご飯を食べた。
話を聞いているとダーマンは元々日本で教師をしていて、今は、シキホール島の小学校にたくさんトイレを作ったりしている有名な日本人らしく、そこで働いている子供達もダーマンからの教育費の支援などを受ける代わりに住み込みで働いているという話だった。そして彼らはすごくいきいきしていて、過去にはそこから日本に留学に行くことになった子供もいると言っていた。
単純にダーマンがカッコいいなと思った。そんな人になりたいなぁと感じた。
旅で疲れていたけど次の日の朝8時から、その子供達にテニスをしよう!と誘われた。別にテニスは得意ではなかったけどせっかくの機会だから「やろう!」と答えた。
その日の朝のテニスは今までで1番楽しくて、最高の汗を流した。
そしてその後は1日しかない島観光で有名な場所をとりあえず制覇していった。
その中でまさかの出来事が起きた。
自分が訪れた天然ドクターフィッシュの観光地で自分を助けてくれた家族にまたしても遭遇したのだ。やっぱり人の縁ってあるんだなと強く感じた。
その時にFacebookを交換することになった。その後は何度か連絡をとったりもしている。
いつか彼らに何倍も大きな恩返しをできればなんて考えている。
そんなこんなでその旅が終わった。
疲れた以上に得られるものが多い旅だった。
日本に帰る時にやっぱり1ヶ月が短すぎる、もっと現地で出会った人と深い関係を築きたい、と思った。
そして東南アジアの他の地域にも関わってみたいと思うようになった。
そんな考えから、結果的にインドネシアという国に交換留学に行こうと決めた。
そしてその土地でもまた新たな出会いや発見が得られた。
ここまでが留学に至るまでの流れだった。
このサッカーの経験と留学までがほとんどこれまでの自分の人生そのものと言ってもいいと思う。
これからどんな人生が待っているのかは分からないけど、まだまだ楽しいことが起こるだろうと確信している。